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いろいろな事が有ったようで、辛い思いをした方も居ると思います。
しかし多くの先輩や仲間達がこの世を去りました。
供養も兼ねて楽しかった「東洋電具製作所」での思い出を語りましょう。
ローム株式会社の後輩達も頑張っています。先輩として暖かく見守りましょう。 
 
「東洋電具製作所」に関わりが無かった方はご遠慮下さい。


佐藤研一郎社長の話

1:事務局 :

2023/12/20 (Wed) 21:35:21

https://bbs7.fc2.com//bbs/img/_897300/897275/full/897275_1709263636.jpg 佐藤研一郎社長は2020年1月15日に逝去されました。
 
その年の3月31日付けで「社内報 みちしるべ 佐藤名誉会長追悼号」が「ローム株式会社 広報宣伝部」より発行・配布されました。
 
しかし、この追悼集には肝心な事が書かれていません。とかく”奇人変人”扱いされた佐藤研一郎氏でしたが、彼の特異な人生を知る者としては「何の追悼にもならない」と考えます。彼は”奇人”でも”変人”でも有りません。彼と親交の有った世界的な指揮者「小澤征爾」氏と重なる部分が沢山有ります。
 
「佐藤研一郎」氏は電子部品の製造会社の指揮者でした。「ローム株式会社」はその指揮者を失ってしまいました。
2:宇梶 正弘(49年) :

2023/12/21 (Thu) 13:43:50

 佐藤研一郎社長は、実は中国籍の方でした。
 
 太平洋戦争後の中国で共産党の勢力が台頭した事で、家族と共に日本に亡命したと話してくれた事が有りました。父親はNHK交響楽団の前進の「新交響楽団」のコンサートマスターで、元々は上海のバイオリンの「左」家の血を引く名家だったのですが、何故かバイオリンでなくピアノを選んだ事で壁にブチ当たってしまったようです。ピアノは音階が厳格なので、弦楽器(バイオリン・ビオラ・チェロ・コントラバス)のような”フレットレス”世界とは別なのに選択を間違えたわけです。父親と同じバイオリンをやっていたら、町工場の社長なんかせずに済んだと思います。もちろん、そうなっていれば「ローム株式会社」はこの世に存在しない事になります。

 実は佐藤社長とは音楽仲間でした。彼は不器用な奴でクラシックしか出来なかったのですが(アドリブが出来なかった)、私はクラシックのフルート奏者だったにも拘わらず、ドラムやベース・ギターもやっていました。しかし佐藤社長と一緒にバンドを組む事は有りませんでした。「東洋電具製作所」時代には軽音楽部を組織し、主に社員旅行や社内のカラオケ大会を生オケでやったりしていたのですが、佐藤社長は「音楽はヤメた!」と言ってバンドには参加してくれませんでした。ただ、資金的な面で強力にバックアップして頂きました。「ローム・ミュージック・ファンデーション」はその延長で、演奏家の支援をするという夢を実現したものと思っています。良く佐藤社長に「俺は音楽をキッパリ諦めたのに、お前は何故ヤメないんや!」と言われて「アンタこそ何でヤメたんや?」と話した記憶が有ります。
 
 京都出身の方ならご存じの様に「右京区西院溝埼町」という本社の所在地は同和地区(在日朝鮮人の多く住む地区)です。その中心の「名倉公園」に、就業後の夕方になるとサンタナやシカゴなどの当時の最新のアメリカのヒット曲が大音響で流れていました。佐藤社長の当然ながら聴いていた筈です。当時の「東洋電具製作所」が急激にグローバル化した契機になったのでは無いかと勝手に想像しています。
 
3:中井 和昭(42年) :

2023/12/21 (Thu) 14:04:56

 私が入社した時には佐藤社長はクラウン、専務はマークIIを運転していました。因みに、私の担当車は日野コンテッサ(貴婦人)で車番は1052でした。まれに専務車を借用しましたが、高級車に乗ると運転が上品になることを実感しました。「貧乏人が、何をそんなに急ぐのか!」の気分。
 
 どういう心算か、佐藤社長を伏見のご自宅までお送りすることとなり「運転経路と運転見本を示す」と仰って、その日は自ら運転されました。その頃は大手筋の商店街が東進可能だっと思います。その運転はきわめて慎重で、その際にお聞きした運転訓示は未だに忘れられません。曰く、発進停止は車内のマスコット人形が倒れないように配慮のこと、曰く、クラクションは相手が危険に陥ることがない限り使用しないこと、すなわち危険があれば、車側が配慮すること。これだけでした。次の機会に初めて私の運転で社長をお送りしました。社長は助手席にお座りになり、次の機会からは私の運転でOKとなりました。
 
 社長が車が嫌いであったかどうかわかりません。クラウンの新車の納入日に「エンジン音がおかしい」と言いだし、トヨタのエンジニアが駆けつけましたが「何がおかしいかわからん」とのこと。こちらもわからないまま、車を交換させました。

 音に関してもう一つ。当時、社内のBGMは毎日放送ミュージック社が担当し、自動的に作動していました。ある日、現場におられた佐藤社長から「BGMが半音おかしい!」とのきついご指摘! 「もはや雑音でしかない」とも言われましたが、毎日放送の営業マンもさっぱりわからず。その結果は覚えていません。

 ご存じの方もあったかも知れませんが、佐藤社長は重度の”色盲”でした。神田常務の配慮で免許更新はOKでしたが、信号は周囲の車の動きで判断されていたようです。LEDのカラフルな色が、どの様に見えていたのかは判りません。

 その後「センチュリー」が採用され、大和銀行の支店長の運転手だった松本さんが採用されました。明るいベテランでしたが、社長のオーラに圧倒されたのか、右に曲がるのを左折したり、心配したものです。極めつきは京都駅にお送りした営業の客を予定の新幹線に乗せられなかったこと。理由は五条通りの山陰線踏切(当時は路上)で信号待ちし、発車時刻に間にあわなかった由。これに逆上した社長曰く「プロの運転者であれば、気候条件、運転情報の取得に努め、踏切時間ぐらいは把握すべき!」とか。この時点では、運転手は上田部長の直轄でした。
4:事務局(宇梶) :

2024/02/01 (Thu) 11:29:09

https://bbs7.fc2.com//bbs/img/_897300/897275/full/897275_1709265065.jpg  今にして思い返せば「東洋電具製作所」の創業から2020年に佐藤研一郎社長が亡くなるまでの66年間、佐藤社長一人に徹底的に振り回された会社だった。しかし、彼の国際感覚は私達”日本人”とは異質のもので、社員の想定を遥かに超える発想だった。その理解不能な発想のために幾多の経営危機を乗り越えて現在に至っているが、最後の最後に大きな”見込み違い”をして失意の内にこの世を去ってしまった。
 
 そのためか、成仏出来ずに現在も”亡霊”として京都の市中を彷徨っている。
 
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 2022年1月中頃、突如「佐藤研一郎」社長の亡霊が私の夢枕に現れた。

 「佐藤研一郎」社長が突如この世を去って丁度2年になる。「何の用や?」と聞くと、藪から棒に「ウ~サン(私のあだ名)、俺に内緒にしてる事が沢山有るやろ~。」と言う。「確かに、LEDに関しては、特許も取らず、技術標準書にもあえて書かなかった事が沢山有るで~。俺の頭の中にしか残っていない。それも、近々消えて無くなり、永遠の謎になる。それでエエやろ~!」と言ったら、「それは困る。今やっている連中に聞かせてやってくれ!」と言う。

 「何でやねん?」と聞くと「今のロームが有るのはLEDのお陰や!。ところが、会社がデカくなったら変な方向に走り出したんや!」……と。「俺がロームを辞める時に”LEDさえやっていれば絶対に潰れへん”と言った筈や。そやし、あれから40年潰れんと大きな会社になったやんか。エラート音楽事務所やローム・ミュージックファンデーションやらで好きな事もやれたやろ!」と言ったら「イヤイヤ、最近俺の嫌いな”車載用”やら要らん事をやってるんや。」と嘆く。「そんなもん、知るか!。俺の知った事や無いで。」と断ったら「そんな言わんと、頼むがな。」と言って消えてしまった。

 思い返せば、ロームを”円満退社”した後、京都でロームの同期社員3人とコンピュータ・ディーラを創業、日本IBMの中小型汎用機(「System 36」「AS/400」)のトップディーラになり、その業績が評価されて東京・六本木の日本IBM本社で中小型汎用機の商品企画に従事「PS/55」の在庫処分企画から「DOS/V」の開発、「PS/V」から「Aptiva」の個人向けパソコンの商品化、NEC「PC-98」シリーズの世界市場からの駆除、「コンピュータの巨人」と言われた巨大グローバル企業「IBM」の”サービス・ビジネスへの大転換”へと大暴れしたが、バブル経済の崩壊の余波と阪神大震災で一気に失速してしまった。その後、会社は自主廃業し「パソコン大魔神」としてローム時代の先輩の柴田健雄さんの陰に隠れていた。
 
 それも20年程前に1匹の子猫を拾ったこと事から、突如”京都の野良猫”の保護活動に携わり、10年程前からはコンピュータの世界からも完璧に離れ、猫嫌いの同和や朝鮮人達と京都市議会・保健所や京都府警本部・京都地検を巻き込んでまるで「ヤクザの抗争」のような熾烈な市街戦の日々を送っていたが「街猫(まちねこ)運動」として野良猫を”駆除”から”保護”する方向に京都市政を180度転換させた。
 すでに2人の子供は独立し、今は僅かな年金を頼りに、91歳の母親と1匹の猫とで静かな余生を送っている。年齢も丁度70歳となり、自動車の運転免許も自主返納した。

 そこに突如「佐藤研一郎」社長の亡霊が現れた。まったく、死んでも世話のやける迷惑な奴だ。
5:事務局(宇梶) :

2024/02/01 (Thu) 13:51:26

 「東洋電具製作所は48年前に倒産していた筈だった。」

 私(宇梶正弘 当時22歳、当然独身)は昭和49年に当時の「東洋電具製作所」という資本金1,600万円の薄汚い町工場に入社した。人事課富沢係長の退屈な新人社員研修を終え、最初に製造実習で放り込まれたのが、亀位係長率いるLED製造係だった。この頃の課長は谷口さんだった。実習の責任者として紹介されたのが、今は亡き、若き「田中治夫」主任だった。第一印象は「こいつ、マトモや無いな!」。
 これが、その後の人生の師匠となった「治夫(はるお)さん」との出会いだった。ところが、いざ実習となった途端、部下の「奥くん」に振って、本人は何処かへ消えてしまった。結局実習とは名ばかりで、奥くんの作業に付いて周るだけだった。後で知った事だが、当時のLEDは「ガリウム砒素」という猛毒の結晶で、シリコンウエハとは比較にならないほど高価な材料で、誤って割ろうものなら給料が軽く吹っ飛ぶようなものだったそうな。その「ガリウム砒素」ウエハ、シリコンのような円形では無く、三角形やら長方形やらバラバラの形状、大きさもバラバラだった。中にはどう見ても”破片”にしか見えないものも有った。

 ところで、LED製造係の実習が始まって三日目で早くも「ウ~サン」というあだ名を頂いた。そこで以後は私を「ウ~サン」とする。

 LED製造実習で一番ヤバかったのは「拡散工程」だった。石英製のトレイの溝にガリウム砒素ウエハを縦に並べて直径10㎝、長さ50㎝程の石英アンプルに入れ、少量の亜鉛の粒を入れて真空ポンプで中を真空にする。その状態で酸素水素バーナーを使ってアンプルを封入する。それを1,000℃以上の拡散炉に入れる。そこまでは驚く問題では無いが、問題はその後。何故か濡れたタオルを沢山用意して、真っ赤に焼けたガリウム砒素ウエハの入った石英アンプルを炉から取り出し、その濡れタオルを石英管に一気に被せた。当然、「ジュ―」と湯気が上がる。そこで治夫さんが「ここで石英管がパキッとイッたら、このフロア全員即死やで!」薄笑いしながらつぶやいた。
 濡れタオルを取ると透明なはずの石英管の内側が銀色になっていた。これはウエハの砒素と亜鉛が置換されて「砒素」が石英管の内側に析出した。確かに、もしガスの状態で漏れたら「アウシュビッツのガス室」と同じだ。治夫さんがマトモで無いという「疑惑」が「確信」に変わった瞬間だった。

 驚愕の拡散工程の後はアルミの電極を作り、ラッピングをした後、裏メタルの金蒸着をしてウエハ・プロセスは終わり。この頃製造していたLED製品は、ランプ用では無く、「8」の字を表示する7セグメントのLEDアレイで用途は電卓の表示用というものだった。しかし、その当時日本国内で販売されていた電卓はニキシー管か蛍光表示管を使った文字通り卓上サイズの大きなもので、電池駆動の手のひらサイズのものは無かった。販売先は日本のメーカーでは無く、欧米市場向けで生産拠点の香港に出荷するという話だった。

 さて、製造実習の終盤になって「ウ~サン」の一生を左右するような大事件が起きる事になる。それは、チップ状に切断する前に電気的な試験をするプローバー工程での出来事だった。ウエハの状態のまま電極を当ててセグメント単位で電流を流し、ダイオードとしての基本的な電気特性を試験し、規格をクリアしなかったセグメントが一つでも有れば「不良品」と判定して赤いマーキングをするものや。ウエハの周辺部分は形状が欠けたりしているので、当然「不良品」として赤インクが落ちる。ところが、ウエハの中心部分は「良品」と判定されるのに、大半のチップは赤インクが落とされる。顕微鏡で見ていると、セグメントは光っているのに、順方向電圧(Vf)が基準値を超えているようだった。

 プローバーはチップの寸法をセットすると自動的にピッチ送りするため、最初の10個程の動作状態を顕微鏡で確認した後は機械が勝手に次々とテストを行う。終わればウエハを載せた真空チャックが自動的にプローバーから出てくるので、マスク・アライナーのように常に顕微鏡を覗いている必要は無いのだが、セグメントが綺麗に赤く光るのが面白かったので、ずっと顕微鏡を覗いていた。すると、発光している部分がプローブ針が触れた瞬間に僅かに沈んでいるように見えた。「何か変やな!」と思ってプローバーから出て来た真空チャックを横から覗いて見ると、ウエハが僅かに反り返って周辺部分が浮いていた。 そこで、事務所で使っていた製図用の「スコッチ メンディング・テープ」を使って浮いている部分を真空チャックに張り付けて見た。すると、パターンが欠けた周辺部を除いてチップの殆どが「良品」と判定された。そこで、その前にテストをして真っ赤になっていたウエハの赤インクをアルコールで洗って、再度プローバーに掛けたところ、逆に殆どが「良品」と判定された。

 そこに、何故か治夫さんがプローバー室に入って来て「ど~や?」と声をかけて来たので、「こないしたら殆ど良品になるで!」と説明し、ついでに「真空チャックを改造したらイケるやろ!」と改造案を話したんや。すると、突然に怒り出して「エエと思ったら直ぐヤレ!」という。「亀位さんの許可をもらうわ!」と言ったら、「そんなもん、要らん。すぐヤレ!」と怒鳴られた。そこで、プローバーから真鍮製の真空チャックを取り外し、工作室に行って「ボール盤貸してクレ!」と言って勝手にボール盤を使い改造を始めた。すると、工作室の宇野課長が来て「お前、何や!」とイチャモンを付けて来た。事情を簡単に説明して事無きを得たが、新入社員が勝手に工作室に入って来て機械を勝手に使うというのは有り得ない事だったと思う。「後片付けしとけよ!」と釘を刺されて許可してくれた。

 真空チャックの改造が出来てプローバー室に戻ると亀位係長が待っていたので、使い方を説明した。「後はやっとくわ!」という事で、その日は終了。後で聞いた話だが、その晩から亀井さんが毎晩徹夜で溜まっていた不良品の山を全部やり直したそうな。ガリウム砒素のウエハは猛毒なので、簡単に廃棄出来なかったため、過去の不良品はプローバー室の隅に積み上がっていて、その大半が「良品」として香港に出荷されたらしい。

 これも後で聞いた話だが、香港で製品を待っていたのは当時”行方不明”と噂になっていた佐藤社長だった。無国籍状態で在留資格を更新していた社長が香港の永住権を取得するために香港に居住していた。電卓用LED表示チップは佐藤社長自ら営業活動をしていた。この時期の日本は第二次石油ショックの影響をマトモに喰らって国内の受注が激減。社内では「倒産するんやないか?」という噂も有った。実際、電気代の支払いや機器のリース料の支払いが滞り、12月は給料も危ないという噂が有った。
 
 その危機を救ったのがLEDだったというのは、何年か後で佐藤社長本人が「ウ~サン」に話してくれた。「あの時は子供の預金まで降ろして給料に当てたんや!」........と。しかし、この時期を境にして、”佐藤社長の御乱心”とも思われる奇怪な行動が始まった。
 
6:事務局(宇梶) :

2024/02/01 (Thu) 17:27:07

 「購買課の爆破事件」

 LED製造係での実習の後は、ICの製造実習だった。ICはLEDと異なり拡散工程が2回有る。当然フォトレジ工程も増えるため、100を越える工程数になり、製品を持って周るのは不可能だった。そのため、見学会に毛が生えたような結構雑な実習だった。後は配属が決まったら、そこで真剣にヤレ!という事だろうか。

 入社3ヶ月目で配属先が最終的に半導体製造部の設備課となった。勿論「半導体製造技術なら判るが、何で設備課なんや?」と不満だったが、文句を言っても始まらない。「ま、やって見るか!」と考え直して奥野課長の下の三宅係長の部署に配属された。この係は、半導体製造工程の機械設備をメンテナンスするのが仕事で、メンバーは古田、下野、中谷という割合真面目な連中ばかりで、LEDの治夫さんのようなブッ飛んだ変人は居なかった。
 
 しかし、第二次石油ショックの影響は深刻で、事務所は勿論、クリーンルームの中まで蛍光灯が間引かれて、何処も薄暗い陰気な雰囲気だった。2階クリーンルームの製造設備には「有休設備」と書かれた張り紙が張られ、半分以上のマシンが止まっていた。ただ、マシンが動いていなければ故障することも無いので、暇潰しが大変だった。「修理に行って来るわ!」と言ってクリーンルームに入り、オペレータの女の子達と遊んでいたり、クリーンベンチの裏で居眠ったり、隠れる所は至る所に有ったが、考える事は皆同じで直ぐにバレるというのが困った事だった。

 困った事と言えば、東洋電具製作所というイカれた会社に半年も居ると結構馴染んでしまうという問題だった。とにかく、上下関係が全く無く、課長・係長・主任という肩書はみんな無視していた。例えば、亀位係長は「亀チャン」、田中主任は「治夫サン」人事の芝間課長に至っては「芝間」と呼び捨てだった。神田常務でさえ「カンちゃん」だった。上司だろうが先輩であろうが、あだ名で呼ぶのが社内標準だった。従って「ウーサン」と呼ばれるのは或る意味誇りでも有った。それと、仕事のやり方も常軌を逸していた。仕事というのは自分で探して勝手にやるのが基本。上司の指示を待っているような奴は要らない。現場から「何とかならん?」という話が有ると、勝手にアクションを起こす。機械に何か問題が有れば、メーカーに相談して改良可能なら勝手に発注する。メーカー側が頼りなければ勝手に部品を調達して改造する。その時上司に許可を得るという概念は全く無い。逆に上司から「今、何してるんや?」と問われても「見て判らんか!」と言い返す始末だった。それ程に東洋電具製作所という会社はデタラメな会社だった。しかし、この会社の異常な活力の根源は、ここに有ったと思う。

 そんな悪しき慣習が馴染んでしまった頃、購買課で大事件を起こす羽目になった。正確な事は覚えていないが、確か加工部品の事で加工業者と喧嘩になった。要するに図面通りに仕上げて来なかったので「ここが間違ってるやろ!」と文句を言って「やり直ししてクレ!」と指示したところ「材料手配からせんならんので、納期がかかる」との事、「そんなら、もうエエ!。自分で加工するわ!」という事で、業者が間違えた部品を引き取った。その時、立ち会っていたの購買の担当者(確か、大西敏だったと思う)に「自分、図面読めるやろ!。最低限寸法のチェックくらいせい!」と怒ってやった。後で知った事だが、購買では図面が読める奴が誰も居なかった。先輩達に聞いたら「寸法違いなんて普通やで!」との事、要するに加工部品に関しては完璧にノーチェックだったのが発覚した。

 そんなこんなで頭に来ている時に、北工場の3階に上がったところ、吉野課長のところにベージュ色のジャケットを着たパーマ頭にサングラスという誰が見ても場違いなオッサンが立っていた。勿論、直感的に佐藤社長だと判ったので、挨拶くらいはしてやろうと思い声をかけた。しかし、その直前に購買と喧嘩した足だったので完璧に言葉を間違えた。何と「社長やんか!。何処にイッとったんや!」。
 それを聞くなり「お前如きに”何処行っとった”なんて言われる筋合いはない!」と大激怒。そこは平謝りをして、購買での一件を話した。その中で「購買は業者と”馴れ合い”になってる違う?」という話をした記憶が有る。

 すると、翌日に三宅係長の所に購買から電話が来て、「1階ロビーの会議室に来い!」との事、そこで三宅さんと二人で会議室に入ると、購買の藤原課長(佐藤社長の奥さんの実兄で、藤原本部長は従妹)を真ん中にして、購買課の全メンバーが怖い顔で鎮座していた。そこで「アンタ、社長に何言うたんや?」と尋問され、三宅さん共々陳謝する羽目になった。何せ、多勢に無勢、喧嘩して勝てる相手では無かった。

 ところが、その翌日、また3階の廊下で佐藤社長と鉢合わせになった。そこで、「昨日はエライ目に遭うてな~」と購買に吊るし上げられた件を話したら、話が終わる前に突然消えてしまった。
 翌日、購買の藤原課長が人事課に飛んだというニュースが全社に流れた。当時の購買課は藤原課長の下に下司係長、沢田勝氏(この方は別格)生部さん、西村さん、大西敏くんというメンバーだったが、佐藤社長が購買課に爆弾を落とす前に身内の藤原課長を人事課に避難させた可能性が考えられる。後に、その藤原課長は安全衛生で重要な役割を果たす事になる。
 
 この事件以降、佐藤社長の年度方針に「馴れ合いを排し……」という文言が必ず加わるようになった。
 
7:事務局(宇梶) :

2024/02/01 (Thu) 22:10:10

 「LED製造係が撃沈された事件」

 「東洋電具製作所」が倒産寸前だった時、陰で支えた佐藤社長直轄の「LED製造係」はひたすらマイペースを貫いていた。いや、現実はマイペースと言うより「除け者」とか「厄介者」という扱いだった。確かに、考えて見れば当然で、そもそもの材料が「ガリウム砒素」とか「ガリウム燐」とか、シリコンの世界からするとP型シリコンとN型シリコンを作成する不純物が、それだけで固まった塊だ。それが同じクリーンルームの中で作業をするという事自体、有ってはならない話。当然、使用する設備はICやトランジスタとは厳格に区別され、共通で使用する設備は一つとして無かった。当時は北工場2階で、東側トランジスタ・ICのフォトレジ工程と西側の拡散工程に間に割り込むようにLEDの製造工程が占拠し、1階に至っては中央部に有った「クラス100」という最もクリーンな一等地に、あの驚愕の拡散工程が有った。なぜ、その様な配置になったかというのは謎だった。常識的に考えれば、トランジスタ・ICの工程とLEDの工程はフロアを別にするか建物ごと別にするべきだった。

 ところで、トランジスタ・ICの製造工程が大幅な受注減で暇だった時、LEDだけは異常に忙しかった。香港向けの電卓用チップを使ったハンディー電卓が欧米で大ヒットし、ほぼフル稼働状態だったん。まるで”破片”のようなガリウム砒素ウエハは三菱モンサント社の技術開発で”おむすび”のような大きなサイズになっていた。また、北工場の3階には新たに木下係長・峰松さんが率いる「LED・QC係」が作られていた。

 それでも、LED製造係が邪魔者扱いされていたには、幾つかの理由が有った。まず、人数そのものが少なかった。所詮はダイオード。P/N接合は一つしか無いのでフォトレジ工程は発光部とアルミ電極の2回だけ、あの恐ろしい拡散工程も1回だけだ。おまけに、ただ光ればイイだけなので、周波数特性もノイズも関係ない。更に、チップでの出荷だったため、アッセンブリ(組立)工程が無かった。従って、標印工程もファイナル・テストも要らなかった。留めは、外国部経由の出荷だったため、営業部の目に触れる機会が無かった。LEDに関わっていた人数は全員数えても10人ほど、「ウ~サン」のような設備課などの部外の関係者を含めても20人程度だった。それで当時の「東洋電具製作所」を陰で支えていた。

 ところが......。

 突如「液晶ディスプレイ」なるものが、商品化され、国内の電卓メーカーはこの液晶ディスプレイに飛び付いた。特に気合が入っていたのは「カシオ」と「シャープ」だった。なにしろ、液晶は自分で光らないため、消費電力がほとんど無い。単三電池4本で何ヶ月も使える。これにはサスガのLEDディスプレイも太刀打ち出来ず、一気に墜落することになってしまった。電卓用ディスプレイに特化していたLED製造係は作るものが無くなってしまった。そうなると、日頃の態度が災いしてか、見事に撃沈されて「LED製造係解散」が発表された。魚雷を撃ったのが誰かは定かで無いが、少なくとも数発の魚雷が命中したらしい。そんなわけで七条の「忍者屋敷」でお通夜のような「解散式」が行われた。ただ、そこに佐藤社長の姿は無かった。

 後で聞いた話では、北工場一階の役員室で社長が大爆発しいたらしい。半導体製造部の依田部長や小谷課長、黒沢課長らが一線から外されてしまった。当時の「東洋電具製作所」では決定事項は総て佐藤社長が行うもので、社長の了解無しに勝手に決めると一瞬で潰された。逆に、何の前触れも無く突然に指令が飛んで来るのが「社長命令」の特徴だった。
 
8:事務局(宇梶) :

2024/02/02 (Fri) 09:07:40

 「突如着弾する”社長命令”」

 半導体プロセスというのは、最初から最後までクリーンルームの中で埃などとは無縁の近代的な製造ラインやと思われているが「東洋電具製作所」の時代は1ヶ所だけ「油まみれ」「泥まみれ」のド汚い製造工程「ラッピング工程」が有ったことは余り知られていない。現在は「ディスコ社(旧:第一製砥)」が研削マシンを供給しているので「ド汚いラッピング工程」は存在しなくなってしまった。

 ラッピングとは、半導体ウエハを機械的に削って薄くするという乱暴な作業で、何と「ウ~サン」は学会ではその道の権威だった。何しろ専門が「結晶材料の機械加工と加工変質層の評価」で入社した年に東京大学で開催された精密機械学会で「電子線回折法は結晶の完全性の評価にならない」という論文を発表して学会で大騒ぎになった。本来であれば「信越化学」に就職する筈だった「ウ~サン」が東洋電具製作所に招かれたにも拘わらず、事も有ろうに「半導体製造部設備課」に配属されていた。しかし、当時の「東洋電具製作所」には研究部門が無かった。それでも吉野さんや木下さん、峯松さん、山岸さんなど学究肌の人が何人か居たが「半導体技術研究所」では無く、何かトラブルが起きた時の救援隊のような感じだった。つまり、「ウ~サン」は入社した会社を間違えた。それに気付いた時には「東洋電具製作所」の悪しき慣習に完璧に染まっていた。

 当時、ICやトランジスタは2インチのシリコンウエハを使用していたので、ラッピング工程が有ったのはガラス・ダイオードだけだった。LEDはエピ(エピタキシャル層)がウエハの裏に若干回り込むため裏メタル蒸着前にラッピングが必要だった。何故、ガラス・ダイオードだけがラッピングをしているのかと言うと、チップサイズがICやトランジスタに比べて小さいため、シリコンウエハを薄く削ってガラス管に封入しないと、チップがサイコロのようになってガラス管の中でコケてしまい不良品になってしまうからだ。そのラッピング・マシンは佐藤社長が何処ぞで中古のラップ盤を買って来て始めたらしい。確かに、LED用のラップマシンの隣に油でドロドロに汚れたラップ盤が有った。その場所は、南工場一階の食堂の下の明らかに”意識的に隠している”という場所だった。ラップ盤という機械は、配管継手の端面の平面度を出すための工作機械で、旋盤やフライス盤と違ってレコード・プレイヤーの化け物みたいなルックスのマニアックな機械だった。

 ところが、突如として、ガラス・ダイオードの製造工程を津山市の「シンコー電器に移設せよ!」という”社長命令”が着弾した。そこで、ド汚いラップ盤を「何とかせい!」との指令が三宅係長から発せられた。もともと中古で買って来たマシンなので、少しは綺麗にして送り出してやろうかと考え、マシン全体にこびり付いた油を灯油を使って洗い落とし、アイボリー・ホワイトの塗料を買って来てマシン全体を塗り直してやった。そして、まるで新品のようにして「シンコー電器」に送り出した。

 ところが、一台残ったLED用のラップマシンが突如動かなくなってしまった。マシンを分解して調べて見ると、研磨剤の廃液が溝から溢れてギヤ・ボックスに入り込み、歯車を研磨して歯が無くなってしまった。「アチャ~!」と思っている所に、何と間の悪いことに佐藤社長が突如乱入して来て「ウ~サン、俺のラップ盤壊したな~!」と騒ぎ出した。「社長のラップ盤はシンコーに行ってるわ!」と説明してその場は収まった。

 その頃、やっとICの注文が増え始めたが、そこで大きな問題が持ち上がっていた。シリコンウエハが2インチから3インチになって生産量が増えたのは良かったのだが、パワーアンプ用IC「BA511」で規定の出力が出せないという大問題が発生していた。第二次石油ショックの余波で業界全体が死んでいたが、ラジカセがヒットして突然に注文が入って来た。それなのに、熱暴走を起こしてトラブルが続出、出荷がままならない状況になっていた。ICの生産技術では放熱板の厚さを厚くするとか、銅板にするとか色々と対策を施したが、どれも決定打にならず混乱状態が続いていた。そこで「ウ~サン」が「削ったらエエやんか!」と試しにシリコンウエハを半分の厚さにラッピングをしてやった。すると、熱暴走のトラブルが一挙に解決し「BA511」が大量に出荷できるようになった。当時この3インチ・ウエハは価格が安いドイツの「ワッカー社」のウエハを「エクサー社」で調達し、電気代が安いアメリカでエピ工程を施して「東洋電具製作所」に外国部経由で輸入していた。そんな時、突如三宅係長から「名古屋の”ワシノ機械”に行ってラッピング・マシンの検収せよ!」との命令が着弾した。何と新品のラッピング・マシンが何時の間にか発注されていた。恐らく佐藤社長が噂を聞き付けて勝手にメーカーに注文していた様だ。以後、3インチ・ウエハのICとトランジスタは全数ラッピングをする事になった。
 
 これ以降、突如”社長命令”が着弾する事が極端に増えた。
 
 前述の「ラッピング工程」では巨大なラップ盤の平面度を管理するために北工場4階の「UNISYS」の大型コンピュータを使ってデータ解析を行っていた。しかし、経理業務の合間を使ってデータ処理を行っていたので経理課とコンピュータの取り合いになっていた。そこで、抵抗器QC課の植村課長の所で眠っていたミニコン「FACOM-R」を失敬してラッピング室に持ち込んでデータ解析を行っていた。そんな勝手な事をやっていたのが佐藤社長の耳に入っていたようだった。
 
 次に着弾した”社長命令”はLED製造係のたった1台のアライナー(露光装置)「CANON製」のプロキシミティ・プリンタの解像度アップの指令が飛び込んで来た。LEDのガリウム砒素燐ウエハはシリコンウエハのような完璧な平面では無かったので、フォトマスクをウエハに接触させない投影型のアライナーを使用していた。この投影型露光装置はキャノンの1号機で、その後の技術開発で紫外線用非球面レンズの性能が向上していたのでレンズユニットを交換する事になった。
 
 次に着弾した”社長命令”は北工場3階のIC・ダイシング工程(小林栄一係長)のレーザー・スクライバーの改造で、このマシンはNECの1号機だった。当時はYAGレーザーのパワー不足でICのダイシング(分割)が上手く行かず、サイズの小さなICチップはトランジスタやダイオードで使用していたダイヤモンド・スクライバーを使っていた。そのYAGレーザーをパワーアップしたものが発注されていた。そこで、東京品川のNEC本社に出向き、段取りを打ち合わせてマシンの改造を行った。このYAGレーザーは後にチップ抵抗のトリマーとして使用される事になったようだ。
 
 次に着弾した”社長命令”は北工場2階のクリーンルームに「東洋電具製作所」初のCVT装置(酸化膜気相成長装置)を設置せよという命令だった。当時、ICやトランジスタの酸化膜生成は拡散炉に超純水を流して酸化膜を生成していたが「こんな不安定な酸化膜ではMOS・FETは無理やな!」とICの製造技術担当者と話をしていた。すると、何故か「AMD社」のCVT装置が発注されていて、それをクリーンルームに設置せよという話だった。このCVT装置は非常に危険で、使用するホスフィンやモノシランが外気に出ない様、屋上に巨大なスクラバーを設置する必要が有った。
 
 しかし、よくよく考えて見るとどれも設備課の仕事では無い。本来なら製造技術が行うべき仕事を三宅係長から突然に指示される事ばかりだった。これらが”社長命令”だった事は後で判った事だった。佐藤社長は「ウ~サン」を”困った時の切り札”として使っていた。
9:事務局(宇梶) :

2024/02/03 (Sat) 15:11:41

https://bbs7.fc2.com//bbs/img/_897300/897275/full/897275_1706948580.jpg  「LED製造部として逆転復活」

 社長の「鶴の一声」で芦田部長が率いる「LED製造部」が鳴り物入りで発足した。何と、半導体製造部と同格で佐藤社長直轄の”製造部”だった。この事でも判るように佐藤社長の感覚では”光りモノ”という扱いだった。従って、見た目に光らない「赤外線発光ダイオード(後に「ローム」が世界シェアを独占する)」は”LED”では無く、”センサー”の扱いになってしまった。佐藤社長にとって「LED」と「レーザー」は別格で”半導体”という分類では無かった。この事が現在の「ローム株式会社」の面々には判っていない。

 その「LED製造部」の話に戻るが、何かがおかしい。

 先ず、生産管理課が無かった。それとQC課も無かった。つまり生産を管理する物も品質を管理する物も無かった。そんな”製造部”って何なんや?.....と誰でも思う筈だった。皆が首をかしげている時、三宅係長から「ウ~サン」に「LEDへ行け!」との指令が下った。究極の”社長命令”の着弾だった。

 当時の「東洋電具製作所」には電気系の人間は多かったが機械屋はパンダのような希少動物だった。図面を読める奴さえ少なかった上に図面が書けるというのは「超々・特殊技能者」だった。そこで、開発の責任者だった神野勝氏に「何の設計したらエエんや?」尋ねると、何と「それを考えろ!」との事、思わず絶句した。要するに、「LED製造部が”何を作るか”から考えよ!」という信じ難い話だった。

 芦田部長は朝から新聞を読んでいるだけ、神野さんと川上くんは何やらゴソゴソとやっている。そこで「ウ~サン」は製図板の前に座って天井を眺めて「ウ~ン」と唸る毎日だった。何せ、何の図面を書くかを考えるというのは、過去に経験が無かった。そんな折、芦田部長机の横に会議机が有って、そこが喫煙場所になっていた。そこには暇そうな営業が雑談をしに来ていたんや。そもそも「ウ~サン」は現場の人間だったので、”営業”という未知の生物に接する機会が無かった。煙草を吸いながら雑談話をして感じたのは、「営業はオモロイ奴が多いな!」という事だった。そこで閃いた。「有りもしない製品」の図面を引いたら、コイツら真に受けて売ってくるんやないか?.......と。

 そこで、海外の資料を見ながら、有りもしない「LED数字表示器:LAシリーズ」をあたかも既製品として「何時でも納品可能」と思わせるような資料を作成した。まあ、釣りで言えば「ルアー」のような疑似餌だ。「騙される営業もおるやろ!」。すると、早速引っ掛かった営業が何人か出て来た。あくまで「既製品」というのは餌だった。要するに「やってるで!」という意思表示に過ぎない。最初はカスタム品として商談を始め、相手の本気度を探りながら話を具体化するという、詐欺にも等しい危ない手法を取った。

 当時の日本市場で真面目にLEDを商品化していた企業は皆無で「東芝」「シャープ」「松下」が遊び半分でやっていただけだった。今では当たり前のリモコン用の赤外線発光ダイオードだが、当時は”リモコン”そのものが無かった。増して、ただ光るだけのLEDなど「ミツミ電機」のパイロット・ランプの代替えに過ぎず、真面目に商品化しようと考えるメーカーは居なかった。ところが、電池駆動のラジカセは真空管アンプと違って、電源がONなのかOFFなのか判らない。そこで、電源表示の豆ランプが必要になった。何せ電池駆動なのでネオン管は使えない。米粒電球の豆ランプは消費電力がネックになった。そこで、動作電圧が低く消費電力も少ないLEDランプが必要になり始めていた。

 その頃、電卓需要を失って死んだと思われていた「治夫さん」が、「こんなもん、出来たで!」と持って来たのが、ガリウム燐結晶でやたら明るく光るLEDチップだった。最初は赤だけだったが、オレンジ色とか黄色とか、更に黄緑色とか濃い緑色とか。さすが「治夫さん」、不死鳥のように蘇った。LEDは赤しか無いと思っていた我々には衝撃だった。明るいのはガリウム燐の結晶が透明で、ガリウム砒素と違ってチップ表面だけで無く、側面からも光が出て来るからだ。

 すると、暇を持て余していた営業達が色々ヘンテコな話を持ち込んで来た。勿論、この時点でLED製造部の売上高はゼロだった。
10:事務局(宇梶) :

2024/02/04 (Sun) 16:04:29

 佐藤社長には姻戚関係の有る”身内”とそれに準じる”順身内”が有った。
 
 社長に近い身内は、外国部を統括する佐藤康三氏で実の弟になる。また前述の社長の奥さんの実兄が購買課から人事に移動した藤原課長で、藤原幸和本部長は従妹に当たる。南工場の一角に医務室が有って産業医の陶先生が定期的に勤務されていた。その陶先生の奥さんは佐藤社長の実姉だった。芦田弥五郎部長は佐藤社長の実妹の旦那で、後に離婚したことから「ローム」を追い出されて福知山に帰った。それと複雑な事情で奥野課長の身内扱いになっていたが40歳代の若さでガンで亡くなってしまった。
 
 これらの面々とは別に”順身内”のような関係に有る特別な社員が居たのは余り知られていない。身近なところでは神田常務と山本専務がこのグループになる。さらに、経理の磯井課長、営業の吉見課長、出井課長など。技術スタッフとしては半導体の谷口課長、抵抗器設備開発の井上課長、QCの植村課長、半導体設備開発の大居氏、橋本氏、生産管理の平木課長、LED・レーザー開発の田中治夫氏、IC設計の疋田氏、購買課の沢田勝氏、などが別格扱いだった。実は、その”順身内”のグループに何故か「ウ~サン」も含まれていた。
 
 実はプライベートな事で藤原本部長の自宅に呼ばれ、そのまま神田常務に自宅に行ったところ、佐藤社長が居て懇々と説教をされた事が有った。会社で話す内容では無かったためなのかは判らないが、その事以来社長の対応が変わった。つまり、突然の”社長命令”が着弾するようになった。その頃、植村課長から社長の対応が明らかに違うと不思議がられていた。
 
 社名を「東洋電具製作所」から「ローム株式会社」に変更した頃、それまでの「従業員会」が突如「従業員組合」になって社内がガタガタになった。しかし、佐藤社長と「ウ~サン」がそういう関係だったことは、神田常務も庶務の上田課長も人事の芝間課長も知らなかった。この「従業員組合」の問題で会社側が「ウ~サン」を辞めさせようと画策したが、佐藤社長も藤原本部長も芦田部長も「ウ~サン」を擁護する側に回っていた。それだけ会社の上層部もバラバラになっていた事はあまり知られていない。
 
(長い話になりますので、暫時更新します。現在のロームの社員が知らない話が沢山出て来ます。)

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