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いろいろな事が有ったようで、辛い思いをした方も居ると思います。
しかし多くの先輩や仲間達がこの世を去りました。
供養も兼ねて楽しかった「東洋電具製作所」での思い出を語りましょう。
ローム株式会社の後輩達も頑張っています。先輩として暖かく見守りましょう。 
 
「東洋電具製作所」に関わりが無かった方はご遠慮下さい。


掲示板開設の理由

1:事務局 :

2023/12/21 (Thu) 09:42:24

 1954年(昭和29年)に「東洋電具製作所」として創業し70年になります。
 
 その間に二度の「石油ショック」を乗り越え「バブル経済崩壊」も乗り越えて「半導体のローム」と言われるまでになりました。思えば「あの時、潰れていたなぁ~!」と思う事が何度も有りました。そんな危機的な状態の時に何故か”救世主”のような製品が現れて潰れずに済みました。
 
 例えば「第二次石油ショック」の時には”電卓用LEDチップ”が陰で支えましたし、「バブル経済崩壊」の時には”半導体レーザー”と”DA/AD変換IC”が陰で支えました。現在の「ローム株式会社」は”車載用パワー・ディバイス”が主流になりつつ有るかに見えますが、陰で支えているのは「東洋電具製作所」時代に商品化した”チップ抵抗器”や”サーマルプリント・ヘッド”と”オーディオ用アナログIC”や”オプト・エレクトロ二クス製品”です。
 
 そもそも「東洋電具製作所」は先行メーカーが”お荷物”になってしまった製品を後追いして市場シェアを横取りするという企業戦略でした(オプトエレクトロニクス製品だけは先行していた)。現在は「半導体のローム」と言われていますが、実は”半導体”では無い製品が陰で支えています。それを主導していたのが「門外漢」と業界で言われていた佐藤研一郎社長でした。
 
 現在の「ローム株式会社」のメンバーは、情けない事に陰で「ローム」を支えている製品が何処の工場で生産されているのかさえ知りません。今となっては”伝説”となってしまった佐藤研一郎社長と、その社長に振り回された「東洋電具製作所」時代の愉快な仲間達のエピソードを語りましょう。
 
 
 事務局は元LED製造部の宇梶正弘(49年)が担当させて頂きます。オブザーバーとして元総務部の中井和昭氏とIC設計の野添実氏も参加しておりますので、宜しくお願い致します。
2:事務局 :

2023/12/22 (Fri) 09:42:58

https://bbs7.fc2.com//bbs/img/_897300/897275/full/897275_1703205778.jpg  最新の”会社紹介”です。
 
 YouTube動画 フルバージョン(6分14秒)を見る。
https://www.youtube.com/watch?v=U384jZLChlU&list=TLPQMTUxMjIwMjP36_ZS-wuRxA&index=3
 
 < 裏話 >
 「半導体のローム」と言われていますが、1967年(昭和56年)に「抵抗器だけでは先が無い!」という佐藤社長の”短絡的な”思い付きから半導体事業が始まりました。このビデオでは「失敗を恐れないフロンティア・スピリット」と「確かな技術力で時代をリードする製品を次々と生み出し」となっていますが、実際は失敗の連続で、技術的にも手探りで不良品の山を大量に造るところから始まっています。誰がこのシナリオを書いたか判りませんが「良くもヌケヌケと言えるなぁ~」と正直思います。現在のロームの社員は半導体事業の初期は滅茶苦茶だった事実を知りません。「それなら、それでもイイか!」とも思いますが、今にして思えば結構デタラメな事をやっていました。何しろ、半導体に関しては”素人集団”だったんです。
3:事務局(宇梶) :

2024/01/09 (Tue) 09:51:43

https://bbs7.fc2.com//bbs/img/_897300/897275/full/897275_1704761504.jpg  「ローム株式会社」の”隠れた主力製品”で”エジソンを越えた”「LEDランプ」の設計者である私(宇梶)が「ロームOB会」から外されていた事が判明したため、「ローム」の総務部に入会を申請したところ、「在職10年に満たなければ入会資格が有りません」と断られてしまった。これには、さすがの私も”唖然”とした。現在の「ローム株式会社」の社員達は「東洋電具製作所」の時代を知らない。原因は1990年代後半に強行された「ローム大リストラ」で、この時期に社員が入れ替わってしまった。OB同士の横の連絡も無くなり、我々はすでに過去のものになってしまった。しかし、現在の「ローム株式会社」は「東洋電具製作所」時代の製品群が支えている。
 
 それはそれとして、2023年秋に「直腸ガン」(ステージ4)を宣告され、余命1~3年と余命宣告された事から、これまでの人生を振り返る事にした。その「直腸ガン」も運動不足が原因だった事が判り、1日1時間の運動(自転車を漕ぐこと)を続けた事で「完治」してしまった。
 
 それで、これまでの「遠回り」だった人生を振り返る事とし。長くなるが、失敗談の連続なので参考にして頂きたい。
 
 私は1982年(昭和57年)3月末に「ローム株式会社」を退職し、当時IC製造部FT(ファイナル・テスト)課に在職していた「前 登」君と共同でコンピュータ販売会社「㈱京都アプライド・システム」を起業した。当初は「㈱ミロク経理」のオフィス・コンピュータの販売とソフト開発・導入サポートを行っていた。起業して2年後に当時抵抗器QC課に在職していた「大槻 祐一」君加えてローム退職者3名体制で営業活動と基幹業務システム開発とユーザー・サポートを行って来た。「㈱ミロク経理」倒産後は「日本アイビーエム」の販売店として事業を拡大し、IBMの開発スタッフとしてパーソナル・コンピュータ(個人向けコンピュータ)の開発に関わり、「DOS/V」の開発と通称「DOS/Vマシン」の普及活動を行った。同時に「IBM OS/2」の開発部隊をMicrosoft社に移籍させ、Windows 3.0以降のPCの環境を確定させた。その一方でIBMの超大型コンピュータ「ES/9000」の生産にも関与し、PC(パソコン)から「AS/400」「ES/9000」までのCPU(中央処理装置)の”64ビットRISC”化を主導し、現在のコンピュータ業界のハードウェア環境を整備した。
 
 更にIBMの事業形態を”マシン販売”依存方式から「京都アプライド・システム」のユーザー・サポートを主軸とする”サービス・ビジネス”方式に転換させ、世界中のIBMビジネスの安定化を実現した。その後、京都に戻りWEB上で「パソコン大魔神」を運営し、フィールドでのPCサポートの人材育成を行った。それまで技術系オジサンの趣味であった”オーディオ””ラジコン””鉄道模型””アマチュア無線”が”パソコン組立”になるという社会現象を起こした。そして、存在意義が無くなった「京都アプライド・システム」を廃業してコンピュータの世界を去った。

 その後は10年掛けて「雅楽」の”龍笛”と”笙”を習得をして京都の多くの行事に参加させて頂いた。また、京都の「野良猫」の生態を研究して”捕獲しない保護活動”を京都市議会や保健所に提唱し「街猫(まちねこ)運動」へと発展させた。
 
 そうこうしている内に「ローム株式会社」の創業者:佐藤研一郎氏の訃報に接し、ロームの状況を調べたところ、私が約50年前に設計・開発したLED製品の多くが残っていて未だに世界シェアのトップに君臨、しかも世界標準になっていた事が判明した。世間を見渡せば、世の中の”電球”の大半が”LED”に替わっていた。私は「エジソンを越え」ていた。約250年前エジソンが京都八幡の竹を炭化させてフィラメントとした「エジソン電球」が夜の闇を照らしたことから始まった。その同じ京都の「ローム・LED」が世界を照らすようになっていた。
 
 思い返せば、エライ遠回りした人生だった。「ローム」を退社してから40年、色々な事に首を突っ込んで足跡を残したが、私が世に出したLED製品が巨大な市場を作って待っていてくれた。これほど"エンジニア冥利”に尽きる嬉しい事は無い。
4:事務局(宇梶) :

2024/05/16 (Thu) 21:03:19

 当時「ミロク経理」が販売していたコンピュータは「ミロク・スーパー7」でオフィス・コンピュータという扱いだったが、実際はCPUが「Intel8086」のパソコンだった。OSは「CP/M」。キーボードは「アイテム・ブック」と「漢字タブレット」が一体になった物。プリンタは沖電気の24ドット・シリアル・プリンタという贅沢な仕様だった。価格は何と288万円。当時販売されていたNEC PC-98とはエライ違いだった。「ミロク経理」の販売方法は、パッケージ・ソフト「販売・購買・在庫システム」「経理システム」「給与計算システム」を販売する事で、プログラミング言語は公開されていなかった。現在販売されている「オービック 奉行シリーズ」「PCA 業務システム」「MJS 業務システム」は全て「ミロク経理」のパッケージ・ソフトが原点である。
 
 「ミロク経理」は元々「複写式会計伝票」の販売会社だった。その「ミロク式会計伝票」が伸び悩み始めていて、コンピュータの販売に活路を求め、オフィス・コンピュータ「ミロク・スーパー7」の「販売特約店」を募集していた。実は、この仕掛けがイカサマだった。「ミロク経理」の本当の狙いは「販売特約店」にマシンを販売し、売上金額を水増しする事だったのだが、世間知らずのエンジニア上がりは2人共見事に騙された。それが判ったのは「ミロク経理」が倒産して大変な目に遭ってからの事だった。コンピュータ・ビジネスに参入した初期の頃の「ミロク経理」は、真面目に個別システムを構築していたのだが、営業拠点を全国に展開した事で資金繰りが悪化し、「販売特約店」を増やす策に変化していた。その事に気付かなかった。
 
 「ミロク経理販売特約店」としての初年度は「ミロク:スーパー7」を新規ユーザーに2セットしか販売できなかった。「ローム株式会社」在職中は技術スタッフの業務だったため、営業経験が皆無だった。その事を甘く見ていたのが最初の失敗だった。ただ、この頃は失業保険が1年間貰えたが、後にバブル経済崩壊で「雇用促進事業団」が雇用保険の財源をリゾート開発で食い潰し、失業保険が大幅に削減される前の平和な時代だったのが幸いした。その翌年から、一転して地獄が待っていた。

 営業力が無かった事を補うために、他の売特約店が売ったユーザーのサポート業務を引き受ける”苦肉の策”を取ったが、これが逆に他の特約店とのトラブルの原因になった。そこで更なる”苦肉の策”として「クレーム処理」に首を突っ込んだ。具体的にはミロク経理の直販営業や他の特約店が販売してユーザーとトラブルになっている案件の火消し役だった。
5:事務局(宇梶) :

2024/05/17 (Fri) 09:58:57

 「ミロク経理:京都営業所」の管轄では、当時数件の「酒販店」でのトラブルを抱えていた。酒販業の取引形態で他の業種と明らかに異なるのが「空容器」で、素人さんは「返品」として処理が可能だと思ってしまうが、実際は「仕入」と同じ扱いになる。空瓶を引き取ると「売上処理」の中に「仕入」が混在するという複雑怪奇な事になる。そこで、「販売・購買・在庫システム」の「売上処理」プログラムを独自開発した秘密兵器”逆アッセンブラ”でソース・コードを生成する事から始めた。ところが、このプログラムは強烈な長さな上に複雑なんてものでは無かった。それを連続徹夜でソース・コードを生成し「空容器」の処理区分を新設して「酒販用売上処理」プログラムを作成した。さらにバッチ更新処理の「日次更新処理」を”逆アッセンブラ”で解析し「酒販用日次更新処理」を作成した。更に「請求明細書」も「酒販用請求明細書」を作成。更に更に「月次管理表」類にも「空容器」を反映できるよう修正した。勿論「得意先マスター・ファイル」の空き領域を利用して「空容器取引額」のアイテムを作成した。結果、思わぬ大改修となったが、ここに「酒販業システム」が図らずも完成してしまった。

 この苦心の「酒販業システム」には意外なメリットが有った。酒販業界は何処の酒屋も同じ商品を定価販売しなければならない「再販制度」に縛られていた(現在はディスカウントが増えて、この制度は崩れている)。つまり「商品マスター・ファイル」が共通で使えるという”美味しい”業界だった。従って、新規に導入しても「得意先」さえ登録してしまえば、速攻でスタートが切れる。「京都アプライド・システム」開発の「酒販業システム」は「商品マスター・ファイル」を標準搭載して、近畿一円の「ミロク経理特約店」の稼ぎ頭になってしまった。

 その直後に新機種「ミロク:スーパーパワーXⅡ」と「ミロク:スーパーパワーXX(ダブルX)」が新発売された。大きな変更箇所はプリンタが富士通製のやや安物のものだったが、24ドット・プリンタだったので印字の品質は変らなかった。大きく変わったのが本体で、フロッピーが5インチになった。ドライブ数は3台で変わらず。CPUがインテル80186になった。OSは「CP/M」の会社がコケてしまったので、「MS-DOS2.0」となってFATが使えるようになった。それと、NEC製の3.5インチ10BM(ギガでは無い)のHDDが初めて搭載された。キーボードは「スーパー7」と同じアイテム・ブックと漢字タブレット。価格は「XⅡ」が298万円、「XX」が348万円だった。全体としては、デザインがやや洗練され格好は良くなったが「スーパー7」に比べると”安っぽくなった”感が有った。

 操作上の変化は起動の手順で、プログラム・ファイルのシステム領域がやや大きくなったため、OSは”ドライブ0”で「IPLモニター」というフロッピーを読み込ませてシステムを起動し「EAPLEインタープリター」をメイン・メモリーに常駐させる。この”ドライブ0”を「プログラム・ファイル」に差し替えて、”ドライブ1”に「マスター・ファイル」、”ドライブ2”に「累積ファイル」を挿入する。内臓されたHDDはブート用では無く、ソート処理の時だけ「ソート・ワーク」として使用されるという変則的な使い方だった。

 この新機種が売れに売れた。「京都アプライド・システム」が開発した「酒販業システム」は版権を「ミロク経理:京都支社」のほか、大阪支社・神戸支社にも渡したため、近畿一円で爆発的に売れた。また「スーパー7」以前の機種で完全個別システムで稼働していたユーザーが一気にリプレース時期になり、その全てのサポート業務が「京都アプライド・システム」に転がり込んで来た。

 「京都アプライド・システム」としては「笑いが止まらない」と言いたいところだが、年中無休で京都を中心に滋賀県・奈良県・大阪府・兵庫県を駆け回らなければならない状況になってしまった。
6:事務局(宇梶) :

2024/05/18 (Sat) 08:21:59

 ところが、その忙しい最中に1986年(昭和61年)突如「ミロク経理」が倒産した。
 「東芝」のOEMでワークステーションが7台接続可能な中型汎用機「ミロクMSトゥゲザー」が発表された後で、同時にデスクトップ・パソコン「ミロク:G-5」も発表された。「Dynabook」でノート型パソコンの牙城を築いた「東芝」だが、実はNEC PC-98に対抗してデスクトップ型パソコンもヤミで開発していた。元々「東芝」は「TOSBAC」として大型コンピュータも手掛けていた。ほかは、NECの「NEAC」、富士通の「FACOM」、日立製作所の「HITAC」、三菱電機の「MELCOM」が凌ぎを削っていた。しかし、最終的に生き残ったのはIBM互換路線を取った富士通と日立製作所だけだった。NECは”大塚商会”と共に沈没、三菱は”オービック”を撒き込んで撃沈、そして東芝は”ミロク経理”と共に玉砕した。
 
 「ミロク経理」が玉砕した原因は、目玉のアプリケーション・パッケージのフリーコピー路線を急転換し、コピーを禁止した事の一言に尽きる。後のMicrosoft社の「Windows XP」や「Office」、Adobe社の「Photoshop」などでも起きた現象だが「ミロク経理」が先例と作ってしまった。メーカーとしては「フリーコピー」が出回るのは損をしていると考えるのは理解できる。しかし、コンピュータはアプリケーションが無ければ、タダの箱でしかない。”売る側”と”作る側”の立場の違いが衝突した時、危機が訪れる。フリーコピーを禁止して事で「ミロク経理販売特約店」のモチベーションが急降下して、急激な販売不振、倒産という事になってしまった。その時の負債額は僅か10億円だったが、銀行や東芝が支えなかったのが決定的だった。何故なら「東芝」は見事に逃げた。パソコン開発部隊の半分は「Dynabook」部隊の編入、半分は「東芝テック」に飛ばされた。オフコン開発部隊は完璧に抹殺された。東大閥の「東芝」は最低の行動をして、市場から去った。ただし「Dynabook」だけは首の皮一枚で繋がって、今でも生存している。天下の「東芝」がノート型パソコンだけで存在しているのは、こう言う馬鹿な事をやってしまった報いである。

 こんな事態に「アルプス電気」が巻き込まれてしまった。資金繰りが急激に悪化した「ミロク経理」は「販売特約店」を回って”約束手形”を集めていた。怪しいとは思ったがアルプス製の新機種を発注するのに、先に”約束手形”を切らされた。また「ミロク:G5」を100台単位での”割賦販売契約書”の契約を強制した。その3日後にミロク経理が倒産してしまった。その時、銀行団がミロク経理本社に押し掛けて、”約束手形”と”G-5割賦販売契約書”を盗み出した。
後に窃盗団と化した大手銀行から手形の取り立てが来た。しかし、発注した商品は届かず、手形の取り立てだけが来た。「北海道拓殖銀行」と「東京銀行」の2行、後のバブル経済崩壊の時に「北海道拓殖銀行」は経営破綻し、「東京銀行」は「三菱銀行」に吸収されて無くなった。自業自得である。
 取り立てだけが来た”約束手形”は、”弁護士”に相談しても「勝てない仕事は受けません」の一言で逃げられたため、何とか工面して分割で支払った。以来、”弁護士”という馬鹿な奴等は、金になる仕事しかしないという事が判り、一切信用しない事に決めた。”G-5割賦販売契約書”はミロク経理の役員の一人は銀行団(窃盗団)から取り戻し、廃棄してくれたので被害は無かった。

 ミロク経理の社員は、突然に会社が倒産したため、大パニックになり、我が社に泣き付いて来た。中にはミロク経理社員だけで新会社を起こしたグループも居た。その脱藩組は後に同じ地域で商売仇になってしまった。また、この倒産劇に巻き込まれなかった「MJS:ミロク情報サービス」に逃げ込んだ社員も居た。コイツ等も後に商売仇になってしまった。何と同じ地域で、元の仲間同士の熾烈な潰し合いが始まってしまった。ここで明暗を分けたのが”技術力”と”資金力”だった。

 我が「京都アプライド・システム」は何とか危機を脱して「ミロク経理京都支社」の全帳票ユーザーと全コンピュータ・ユーザーを引き受けた。そのお陰で我が社は「ヤクザから役場まで」をキャッチ・フレーズに京都最大の販売店となってしまった。(ただし、悲しいかな売るべきコンピュータが無かった)
7:事務局(宇梶) :

2024/05/18 (Sat) 08:33:20

 バブル経済崩壊前の「イケイケ」の好景気の更に前、「第二次石油ショック」から抜け出して「ボチボチやな~」と油断していた矢先に、突然の親会社の倒産劇に巻き込まれた。ただ、この経験は後に巻き込まれる壮絶な「バブル景気崩壊」の予行演習になった。今にして思えば、この経験が無ければ後の「バブル経済崩壊」で”一家心中”していた可能性が有った。この時の貴重な経験とは、銀行の本性は”泥棒”だという事。弁護士は”金の有る方にナビく”という事。民事裁判官と書記官は”世間知らずの馬鹿”だという事。これらの貴重な経験が後の「阪神大震災の余波」と「バブル経済崩壊」のダブルパンチを生き抜く知恵になった。

 話は「ミロク経理」倒産後の話に戻るが、先ず、日本を代表する名門企業「東芝」は見事に逃げた。勿論「東芝」自体も莫大な損失を被ったが、「被害者を救済しよう」などという考えは微塵も無かった。とにかく「東芝」の名前に傷が付くことだけ避けたかったようだ。逆に「アルプス電気」は製品在庫を原価で販売することで、自社の被害を最小限にしようと考えた上に、販売特約店に製品を提供できるよう努力した。「ミロク経理」製品のメンテナンスを行って来た「日信電子サービス」(日本信号の子会社)もユーザーを保護する方向でメンテナンス・サービスを継続した。
 
 ユーザーと販売特約店を救済するために動いたのは「CSK」で、当時の大川会長の指示で「オフィス・マネージメント」という新会社を設立した。そして、この新会社を窓口として「アルプス電気」の在庫を販売特約店に流通させる策を講じた。また「ミロク経理」アプリケーション・パッケージの開発部全員を「CSK」の子会社「CSO」に吸収して開発部員の散逸を防いだ。「CSO」の社長は元日本IBMのSE課長で有った藤枝で、大きなミスをしてIBMを退職したいわゆる”前科者”だったが、この事で「ミロク経理」アプリケーションとIBMの接点が生まれた。当時「CSK」はIBMの大型コンピュータ・ユーザーにシステム・エンジニア(SE)を派遣する事で急激に成長していた。ただ、実際は単なるプログラマー派遣業であって、IBMの設定した高額なSE派遣費用のピンハネをして食っていたイカサマ企業だった。現実はSEとは名ばかりで、コンピュータ学校を出た程度の余り質が良くないプログラマーを派遣していただけだった。その「CSK」の大川会長は「ミロク経理」が完成度の高いパッケージ・ソフトウェアでマシンの販売を伸ばしていたというカラクリを見抜いていた。このチャンスを生かして優秀なミロク経理の開発部隊を手中に収めた。そして、九段のビルから新宿新都心の「住友三角ビル」に開発部隊を移転させた。「CSK」は”善意の泥棒”を見事にやってのけた。
 
 突然の「ミロク経理」の倒産で混乱状態になった巨大なマーケットを「CSK」グループは短期間で横取りした。ここが「CSK」と「東芝」の運命の分かれ道だったと言える。「東芝」は「Dynabook事業」だけを残してコンピュータ市場から撤退し、「CSK」は日本を代表するパッケージ・ソフトのノウハウを手に入れたことで、IBMの世界で優位に立つ事になる。
 
 「京都アプライド・システム」も「CSO」に転籍した開発部隊と共にIBMの世界に足を踏み入れることになった。天下無敵と思われていた「日本IBM」も、実際に中に入って見ると唖然とする状態だった。確かに、SEは優秀な人が揃っていたが、日本IBMの営業部隊はマサカの”詐欺師”集団だった。
8:事務局(宇梶) :

2024/05/25 (Sat) 15:03:15

 IBMが得意とする産業分野は「金融」「証券取引」「商品取引」「為替取引」「運輸(含:海運・航空)」「ホテル(予約・清算)」など、欧米文化そのものの領域は抜群の強さと実績を持っている。しかし、全てが銀行の通帳を見ても判る通り「1取引、1明細」の単純な事務処理を大前提としている。決済も現金決済が基本で、商品を納品すると、その場で小切手を渡すという。取引相手を信用するという概念が無い。会計も貸方勘定と借方勘定が1対1で対応していて、”複合仕訳”という概念が無い。労務管理に至っては「週給何ドル」という契約だけで、手当とか控除という概念が無い。残業・休日出勤・早出残業などという概念は無い。
従って、IBMが提供する業務システムというのは前述の限られた業界でしか通用しない。

 そこでCOBOLやFORTRANという高級言語を駆使してプログラムを自主開発する事になるのだが、日本のコンピュータ教育が完璧に実態とズレているために、実務知識と経験が全くないシステム・エンジニア(SE)とプログラマーを世に送り出してしまった。悲しいかな、”無い知恵”を幾ら絞っても”無いものは無い”。同じ事は、社会経験が無い「裁判官」や「弁護士」、臨床経験が無い「医師」、現場経験が無い「一級建築士」など、「国家資格」が必要な世界は、全てが実態とズレている。コンピュータの世界もプログラム言語を学ぶ前に、現場の事務処理を学ばなければ”お馬鹿”なSEとプログラマーを粗製乱造したに過ぎない。その結果、大手コンピュータ・メーカーが提供する業務システムは”クソ”のようなシステムばかりになっていた。

 そこで、事務処理に限定して考えるとFORTRAN言語はファイルの概念が無い。高度な数値計算を前提として製作されたプログラム言語なので、FORTRANを幾ら勉強しても全く意味が無い。そうすると、選択肢はCOBOL言語だけとなる。ところが、COBOL言語は計算が滅法弱い。データ・ファイルの処理は足し算と引き算だけで、掛け算と割り算は苦手。増して三角関数や対数など以ての外だ(実際、必要無いが)。「ミロク経理」のシステムは手書き伝票の手順をそのままコンピュータ・システムに置き換えただけのため、そこが決定的な違いだった。幾ら「通産省情報処理技術者」の国家資格を取得している”優秀(?)”なシステム・エンジニアでも、実務となると”ド素人”でしか無い。ところが、ナマジ国家資格なんぞを与えた為に「コンピュータのプロだ!」と天狗になってしまった。そんな馬鹿集団が大手企業の「情報システム部」に集まったから大変な事になってしまった。そこに日本IBMからシステム・エンジニアを派遣し「CSK」から”何ちゃってSE”を派遣してもIBMの大型コンピュータは「巨大な暖房機」にしかならなかった。

 ところが、「ミロク経理」のアプリケーション・システムは、「得意先」と「商品」を登録するだけで、その日から本稼働出来た。経理に至っては勘定科目を自動的に設定する「科目ジェネレータ」が提供されていたので、事業の状況に合わせて最初に実行すれば、即日本稼働となる。給与計算システムも企業の就業規則に合わせて「手当」や「控除」を設定すると、その月の給与計算から本稼働する。SEもプログラマーも要らずに本稼働できるアプリケーション・システムにIBMのSE達は腰を抜かした。このシステムが有れば日本中で「巨大な暖房機」になっていた大型コンピュータが稼働出来ると睨んだ。そこで、「CSK」に移籍した元「ミロク経理」の開発部隊は東芝製「ミロクMSトゥゲザー」用にCOBOLで作成した「ミロク・パッケージ・システム」をIBMの中型システムに分類されるメインフレーム系「システム/36」の「RPG/2」言語に移植する作業を開始した。

9:事務局(宇梶) :

2024/05/25 (Sat) 15:09:58

 更に1989年(昭和64年/平成元年)は年初から大変な事になった。
 
その前年の秋頃から昭和天皇の容体が悪化して危篤状態が続いて日本全国「自粛ムード」になっていた。しかも、翌年の4月から「消費税制度」が導入される事がすでに決定されていたが、「自粛ムード」の中で「消費税制度」の具体的な処理方法が決まらない状態が続いていた。
 
 そして年が明けた1月7日「昭和天皇(裕仁殿下)」が崩御された。これはコンピュータ業界にとって一大事で、多くのコンピュータ・システムではデータの日付を”元号”を使用していたため、”64”を”01”にする事になる。すると、請求書や元帳や経理の仕訳データの順番が逆転してしまうという問題に直面した。そこで多くの企業では一時的に西暦を使用する事で逃げることになった。つまり”64”を”89”とすることで明細データの順番がテレコになる問題を解決した。しかし、11年後に西暦2000年で”00”にしなければならない問題を抱える事になった。ただ、11年の猶予が有るので、それ迄にシステム側の対策を取れる猶予が生まれた。
 
 その問題の「消費税制度」の具体策は昭和天皇の”大喪の礼”が終わっても公表されなかった。具体策が表に出て来たのは2月になってからだった。それまで、何処の企業の具体的なシステム変更の作業に着手出来なかった。今のようなインターネットの欠片も存在していなかった時代に「京都アプライド・システム」は情報収集を目的として「日経テレコン」を利用していた。そこで「CSO」は京都にSEを派遣して情報収集に当たり、具体的な「消費税対応」のシステム設計を京都で行った。この時のシステム設計が後に全国共通の「消費税対応」の手本となった。
 
 この「消費税対応」が最も早かったのがミロク経理の戦後処理を行っていた「オフィス・マネージメント」とミロク経理の開発部門だった「CSO」だった。消費税制度が開始する1ヶ月前には修正プログラムと専用伝票類を全国に供給する体制が出来上がっていた。
 
 この時、東芝製の「ミロクMSトゥゲザー」は対応が不可能だったので、IBMシステム36に入れ替える事になった。また、従来からのミロク経理ユーザーで規模が大きな企業もIBMシステム36に入れ替えた。そのため「京都アプライド・システム」はIBM特約店の中で全国でも五本の指に入るディーラーになってしまい、日本IBMの本社から一躍注目される存在になっていた。
10:事務局(宇梶) :

2024/06/23 (Sun) 16:47:23

 「京都アプライド・システム」がIBMシステム36への移行作業に奔走していた頃、日本IBMは全く別の事を考えていた。

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